富岡製糸場の歴史的価値および明治時代当時の労働環境、世界文化登録後の問題点に迫る

富岡製糸場
世界文化遺産に新しく登録された富岡製糸場


【2014年 6月21日のGoogleトレンドランキング】
  • 1位 コスタリカ
  • 2位 富岡製糸場
  • 3位 夏至 

今回は2014年6月に新しく世界文化遺産登録が決定した富岡製糸場をピックアップします。
世界文化遺産登録は、「富士山」に続き、14件目、自然遺産と合わせれば国内の世界遺産は18件目となります。世界文化遺産の登録は群馬県富岡市の悲願ということもあって地元の方の喜びもひとしおなのではないでしょうか。


富岡製糸場への交通アクセス


◯車の場合
上信越自動車道富岡IC下車

◯電車・JRの場合
上州富岡駅下車

詳しくはこちら



富岡製糸場とは

富岡製糸場内部
富岡製糸場内部


 さて、そもそも富岡製糸場とは一体なんなのかということですが、富岡製糸場誕生は時代は明治5年(1872年)まで遡ります。明治と言えば、江戸時代から続く鎖国制度を廃止し、これからの時代は西欧だ!西欧から学べ!と日本が近代化へと突き進んでいった時代です。

 富岡製糸場は明治政府が近代化政策の一つとして建設した工場でした。
 当時、最大の輸出品は生糸でした。日本では弥生時代から製造していたものの品質は世界基準には、はるか及ばず、また明治時代に入り急激に需要が伸びたため、品質が粗悪なものが氾濫していました。

 明治政府は養蚕業・製糸業を重要な基幹産業と位置づけ、国内の生糸生産の見本を示す必要があったのです。明治維新以降、岩倉使節団がイタリアで生糸の生産工場を視察し、日本へ情報を持ち帰っています。



富岡の地が選ばれた理由


  • 繭の生産地であった
  • 良質の水を大量に確保できた(富岡を挟むように高田川、鏑川が流れていた)
  • 広大な敷地を確保できた(七日市藩邸跡が利用された)
  • フランス人技師ブリューナがこの地を気に入った(一説には富岡の風景が故郷パリに似ていたと言われています)



なぜフランス人技師を雇ったのか?


 外貨を得るためには良質な生糸を輸出しなければなりませんでした。
 例えば、繭を茹でる製法と蒸す製法では、後者の方が光沢が優れていましたが当時の日本には、その確たる技術がありませんでした。
 そこで、目と付けたのがフランス式の蒸す技術でした。フランス人技師のブリューフを破格の年俸(月給600ドル)で雇入れたのです。
 富岡製糸場で働く工女(ほとんどが10代)には月給1円~1円75銭が支払われていました。
 明治初期の平均収入が約2円だったと考えれば、10代の少女が受け取る金額にしては高給だったことがわかります。
 明治政府は魅力的な賃金で多くの働き手を確保し、品質と生産性を向上させていきます。(工女は全体で約400人)

富岡製糸場で働く工女達
富岡製糸場で働く工女達
  • 一等工女 1円75銭
  • 二等工女 1円50銭
  • 三等工女 1円

富国強兵-明治政府がこの工場にかける期待は強大なものでした。



富岡製糸場の工場は大きい



富岡製糸場絵図2
明治時代当時の富岡製糸場絵図


操糸工場:長さ141.6m×幅12.6m×高さ11.8m
この他に2棟の繭置き場、事務室、食道、休憩室、女子寄宿舎2棟、ブリューナの屋敷がありました。


富岡製糸場が誕生してから37年の1902年、日本はかつて生糸生産量1位だった清を上回り、ついに世界最高の生産量を誇るまでに成長します。第二次世界大戦以降は東アジア諸国との貿易が途絶えたため、日本の生糸産業は衰退の一途を辿るわけですが、富岡製糸場が日本の近代化へ大きく寄与したことは間違いありません。


富岡製糸場の労働環境


富岡製糸場絵図
社会の教科書でもご覧になったことがある方も多いはず


富岡製糸場の主な働き手は全国から集められた女性工員でした。
 
 映画「ああ野麦峠」では、多くの10代女子が劣悪な環境な中、国のため生糸の生産を支えた、工場に通勤するため危険な吹雪の中を通らなければならなかった等、暗いイメージがありますが、映画の元となったノンフィクション文学「ああ野麦峠」(副題:ある製糸工女哀史)を読むと、悲惨な部分のみを強調していることがわかります。

 一方では、実家の農業の手伝いよりも楽だった、給料も良かったと工女の証言があります。
富岡製糸場の労働環境は整っていて、1日約8時間の労働時間に、週休1日、夏と冬に各10日間の休暇がありました。食堂、寮も完備され、食費・寮費は製糸場が負担していました。

 明治政府としては、近代工場をつくり生糸の生産性をあげると共に、全国にある製糸場の手本とならなければなりませんでした。そのため、労働環境には気を配っていたようです。

 NHK連続テレビ小説「花子とアン」でも、作中の「安東かよ」が製糸工場で働くシーンが出てきます。当時の日本には政府が管理する製糸工場の他にも民営の製糸工場があり、労働条件は良くなかったようです。
 民営は極端な利益追求(ブラック企業という会社が多発する現代と変わらないですね)、しかもコンプライアンスなどという言葉が無い時代、中には24時間働かされ、衰弱死してしまう方も少なくなかったとか・・・。

富岡製糸場の影では、悲しい出来事があったことも忘れてはならないと管理人は思います。
富岡製糸場も民間へ払い下げられた後は労働環境が厳しくなっていったようです。



富岡製糸場が世界文化遺産に登録された理由


ドーハ第38回世界遺産委員会


 ドーハで開催された第38回世界遺産委員会において、2014年6月世界文化遺産へと正式に登録されました。
これは、富岡製糸場だけではなく周辺の絹産業遺産群(伊勢崎市、藤岡市、下仁田町に点在する葉酸関連の文化財)も含まれています。

  • 日本の近代化へ大きく貢献
  • 絹産業の国際的技術交流および技術革新を伝える文化である
  • 絹産業を中心に据えた物件はこれまで世界文化遺産になかった
などが挙げられます。

特に、一部の特権階級のものであった絹糸を世界中に広め、人々の暮らしや文化を豊かにしていった「技術革新」は大きなポイントと言えます。


世界文化遺産登録後の富岡製糸場および絹産業遺産群の問題点



富岡製糸場とぐんまちゃん
富岡製糸場を背景にポーズをとる、ぐんまちゃん


 世界文化遺産登録前には「価値があるとは思えない」「地味ではないか」という声もあがっていました。しかし、登録勧告後に富岡製糸場への来場者が急激に伸び注目が一気に集まったという経緯があります。

 地元の受け入れ体制が整っていない内に観光客が押し寄せてきたため大量の車を受け入れる駐車場が整っていません。「駐車場が空いていない」「どこに停めればいいのかわからない」といった声も聞かれます。
 製糸場近くでは新たな駐車場整備が行われ、2014年3月には「上洲富岡駅」新駅舎が完成したとのことですが、今後は誘導看板や売店など整備していく必要があると思われます。

 また、富岡製糸場は建造から140年以上経過しており、老朽化の心配もあります。
 2014年2月には大雪で一部損壊しています。絹産業遺産群も含めてどう保存していくか、異なる自治体が所有しているため、うまく連携していくこと、周辺住民の協力が鍵になると思われます。

 ともあれ、今後群馬県は、世界文化遺産を中心に観光が盛り上がることは、間違いないでしょう。
 世界文化遺産登録に尽力した方々に心からおめでとうございますと言いたいと思います。
 近代化へと突き進んだ明治政府や製糸工場に従事した工女達に思いを馳せながら、世界文化遺産を訪れると面白いかもしれません。